空白ちゃんダイアリー

空白ちゃんの日記です。読書と甘いものが好きな文学部志望の浪人生です。

友人ふたりが、「最近毎日note書いてるね〜ん」と教えてくれた。そういえば私にもあるではないか、浪人時代に開設するだけして全く運用していないブログが、と思い出したので(今まですっかり忘れていた)、ちょっと冷やかし程度に書いてみよかな〜と思う。

ちなみに、論理性とか客観性とか先行研究との照合云々は嫌ってほど大学でやらされているので、ここでは完全に私の主観で行かせてもらう。いくら先例があろうと、私が私の中で思いついたことだったら「私が発見した」と堂々と書かせていただく。多分、剽窃を疑われるレベルの崇高な考えを、自力で思いつくような崇高な脳みそは、私にはない。

 

さて。

太宰治の「待つ」という作品が好きだ。私は待っている。けれども、誰を待っているのか、どこで待っているのか、どうして待っているのか。

私たちはその奇妙な余白を楽しむ。

そして想像する。一体誰を待っているのか。どこで待っているのか。どうして待っているのか。

それらが明かされることはない。待っている私が存在している、ただそれだけなのである。その事実が明かされないことに私たちは安堵する。

 

あるいは、丸太洋渡の短歌が好きだ。

薔薇と蜂/製氷室に蜂がいる/薔薇の溢れる製氷室に

ここに登場する3つのモチーフの関係性は、作者によって意図的に目隠しされている。順番にスポットライトが当てられるが、その光はあくまで部分的であって、私たちがその全容を知ることはない。私たちはそのスポットライトの光に目をくらませて、たゆたいながら、まどろみながら、3者の関係性に想いを馳せる。

最後の1文で全容が明かされるが、なぜそんな情景が生まれたのかは決して教えてくれない。ただ、3つのものの配置が明らかになったきりである。それでも、私たちは3つの間の関係性を想像して気持ちを動かす。

 

私たちは明かされないことに快楽

暴力性

作者が読者を搾取しているにすぎない。

 

要するに、私たちは弱い存在で、搾取の対象なのである。

私たちは盲目だから、自由に想像の翼を羽ばたかせていると思っている。でも、そうやって作品のかけらから夢想することすらも、作者はとっくに想定している。

現実は、そんなに、甘くない。

私が駅で何かを待ってみようとするとき、嫌でもその場所は分かってしまう。私が製氷室の蜂を見つけたとき、そこに敷き詰められた薔薇に気づいてしまう。

そして、その気づきを、素通りしてしまう。

文学なんてそんなものだ。私たちは結局、作者の前にひざまづく。

 

 

製氷室に迷い込んだ蜂がその後どうなるのかは、私は知らない。

予備校の現代文の授業を受けて思ったこと

こんにちは。空白ちゃんです。しがない浪人生です。

某S台予備校の授業が始まりました。授業といっても、このご時世なので、授業動画を見るだけです。対面授業を期待していたので残念ですが、それはまあ置いといて。

現代文の授業が、それはまあ気持ち悪かった。

問題文は、岡真里さんの「記憶/物語」からの引用でした。記憶について、彼女が思い巡らせたことを、簡潔に、でも美しく描写している。

ーーー夜、冷蔵庫で冷やしたジュースを飲んだ。ほんの一口、口に含んだその瞬間のことだ。15年前、エジプトで食べたのと同じ、あの甘酸っぱい洋梨の香りが口腔と鼻腔をいっぱいに満たしたそのとき、その甘い果汁に浸潤された口膣内の細胞の奥深くから、マリアおばさんの「コメートラー」という言葉が突然、亡霊のように現れ出たのだった。

ーーーコメートラーという言葉がからだの奥深くから湧き上がったまさにその瞬間、15年前の回路の光景が生き生きと、あの時のままに蘇ったのだ。埃と真夏の容赦ない陽射しに照らされたタハリール広場、錯綜する自動車のクラクション、人々の叫び声、香辛料のまじりあった独特の匂い、フランス風の重厚な石造りの建物の中の、すべやかな壁のひんやりとした冷たさ、古風な金属の重たい金属製の扉の匂い、マリアおばさんの下宿、テーブルカバーの刺繍や房飾り…。

ーーープルーストが「失われた時を求めて」で描いた、あの有名な紅茶に浸したマドレーヌさながらに、洋梨の甘酸っぱい香りが触媒となって、15年前の7月、カイロで私が見、聴き、嗅ぎ、触れ、感じたこと、そのすべてが、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのように、いちどきに現在形で溢れ出たのだった。

読んだだけで、岡真里さんの感じたことがそのままズンと自分の目の前に差し迫ってくるかのような、勢いがあって、でも、ものすごく丁寧な文章でした。アラビア語を学ぶための留学、初めはきっと聞き取れないし喋れない。自分の言語が半分遮断され幼児に戻ったみたいな気分で、だからこそ日本にいる時の何倍も、感覚が研ぎ澄まされる。目に、耳に、口に、鼻に、ありとあらゆるものが差し迫ってくる。古王国時代からきっと変わっていない埃っぽい乾いた空気の中に、ややミスマッチな風に佇むフランス風の建物、歩んできた歴史を体現するかのように国境をこえて文化が混じり合う中に、飛行機ではるばるやってきた自分がポツンと立っている不可思議さ、切なさ、なんで自分はここに立っているんだっけと頭が空っぽになればなるほど、目の前の洋梨の甘さと酸っぱさが脳髄にまで染み渡る…。

そんなことを考えながらテクストを読んでいたら、画面上の先生が、「京大志望の人はこれよく読んでおくと良いですよ、岡真里先生は京大の教授ですからね」なんて言ったもんだから、思わず、気持ち悪、と感じてしまった。「プルーストは有名だから覚えておいてください」なんて言ったときには吐き気が催してきた。

わたしは、もしもこの文章を書いた人がどれだけ世間から馬鹿にされている大学に勤務していようと、その人の作品自体が批判されていようと、有名でなかろうと、この文章から溢れ出る感覚を、美しいと思うだろう、と思う。京大だから、とか、有名だから、とかいう俗っぽい言葉が、あまりにこの文章と乖離しすぎていて、よく何のはばかりもなくその言葉を出せるな、と思った。

もちろん、先生の言葉を聞いて、京大へ行きたくなったという人もいるかもしれないし、先生の言葉をきっかけに、プルーストを読み始めたという人がいるのなら、それはそれで良いのかもしれない。

でも、私は、もしこの先生から言語を取り除かれたら、彼の感覚だけで何を掴み取るんだろうな、と思ってしまっていた。別に知りたくもないんだけど。

もしあの先生にも、忘れられない感覚があって、でもそれを封じ込めて予備校で授業をしているのなら、それはそれで可哀想だな、とも思った。まあ確かに、文章を読んでこう思ったとかそういう感覚的なものは、受験においては邪魔だよね。例示の部分は全てカッコにくくって、論を読み取るときにちょろっと助けにするくらいがちょうど良いのかもしれない。

高校のときの某現代文の先生、すごかったなあ。明確に筆者の意見を読み取りながらも、読んでる時の先生自身の(ちょっと常人離れした)頭の中を、生徒にこれでもかってくらい見せてくれるんだもん。先生に言われてから文章を読み直すと、全然違う光景が見えてくること、よくあった。

こういうどうでもいいことを考えてるから、多分センター8割止まりだったんだろうな、と思いました。